歴史スレまとめ

歴史情報に関するスレのまとめです。

    カテゴリ: 日本史

    1: Egg ★ 2021/01/03(日) 22:40:00.78 ID:CAP_USER9
    戦国武将の織田信長(1534~82)が、配下の明智光秀(1528?~82)に討たれた本能寺の変(1582年)をめぐり、
    光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、部下に実行させていたとする学説が出てきた。

    本能寺の変に参加した家臣から聞いた情報として、事件から87年後にまとめられた古文書に記録されていた。
    これまで映画やドラマなどでは光秀本人が寺を襲ったように描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも議論されてきた。

    【写真】1行目に「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」とある「乙夜之書物」上巻。明智軍が本能寺を急襲し、信長が武器を取って戦う様子も記されている

    古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)。
    史料の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた。このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした。

    萩原さんによれば、本能寺の変の記述は1669年に成立した上巻にある。寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に関わった利宗(としむね)が、
    おいで加賀藩士の井上清左衛門に語った内容として収録されていた。利三と、光秀重臣の明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと書かれている。

    奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために書き残し、他人に見せることは厳禁とある。
    萩原さんは「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、信頼性が高い記述ではないか」とみる。

    光秀本人が本能寺を襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の吉田兼見(かねみ)の日記(1570~92年)などに「惟任日向守(光秀のこと)、
    信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されていたためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘される。

    光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂(へんさん)所教授(日本中世史)は「十分あり得ることではないか。
    光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話す。(編集委員・宮代栄一)

    1/3(日) 20:47配信 朝日新聞
    https://news.yahoo.co.jp/articles/1ade4e8214a4e27f466490a44d787af505f62b40

    写真
    https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20210103001430_comm.jpg
    https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20210103-00000030-asahi-000-5-view.jpg
    https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20210103001433_comm.jpg

    【【文芸】<本能寺の変(1582年)>明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行、古文書に [Egg★]】の続きを読む

    引用元:https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1221893170/

    1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/20(土) 15:46:10
    300年後の幕末維新はどのような形になったでしょうか?

    【もし徳川が関ヶ原後全力で島津を潰していたら?】の続きを読む

    引用元:https://hebi.5ch.net/test/read.cgi/news4vip/1577371901/

    1: 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2019/12/26(木) 23:51:41.741 ID:sEITvEuR0
    ロシアは南下政策が断念されて満州の鉄道権益も取られて、且つ日本は欧米の評価が爆上げで五大国(今でいう常任理事国)入り出来たとか

    高校の頃の先生は「日露戦争は実質負けに近い引き分け」とか言ってたからそうなのかと思ってたわ

    【日露戦争って引き分けかと思ったら意外と日本がちゃんと勝ってるんだな】の続きを読む

    引用元:https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1590675887/

    1: 樽悶 ★ 2020/05/28(木) 23:24:47.71 ID:EcTkPv0B9
    平将門の墓は「東京都千代田区大手町1-1」にある。高層ビルが建ち並ぶビジネス街のど真ん中に、平安時代中期に「新皇」を名乗った豪族の墓があるのだ。京都では極悪人とされた人物の墓が、なぜ東京の中心地で守られ続けているのか。民俗学・文化人類学者の小松和彦氏が解説する――。

    ※省略

    ■「新皇」を名乗り、関東の分国化を目指した

     平将門とは、平安時代中期の関東地方の豪族で、承平・天慶年間に起こった平将門の乱(935―940)を起こした中心人物である。桓武天皇の子孫にあたる平良将の三男として生まれた将門は、父の早世後、所領や女性問題をめぐって、筑波山麓地帯に勢力を張っていた東国平氏の族長的な存在であった伯父の平国香(くにか)や平良兼(よしかね)たちと激しく対立し、互いに武器をとって戦うようになった。戦いを繰り返すなかで次第に勢力を広げ、宿敵・良兼の病死後は常陸(ひたち)一帯をその支配下に収め、やがて朝廷側から見ると公然たる反国家的な行動をおこなうようになった。

     そして、ついに天慶2年(939)、将門は常陸の国衛(こくが)(国司の役所)を攻撃して焼き払い、さらにその余勢を駆って下野・上野以下の関八州の国衛を制圧した。そして「新皇」を名乗り、関八州の国司を任命して、朝廷の支配から離れた関東の分国化を目指した。しかし、将門の関東支配は数カ月しか続かず、朝廷側の藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛(さだもり)らに追討される。

     その首級(しゅきゅう)は京都まで運ばれて、獄門にかけられたという。

    ■京都側のイメージ「将門の死=神仏の罰」

     後世の人びとのあいだで語られる将門には、異なる視点から形成された二つのイメージがある。一つは京都側のものである。王朝文化が花開こうとしていた時代、京都から遠く離れた坂東(ばんどう)の地で起こった反乱は、京都の天皇・貴族たちを恐怖のどん底におとしいれた。それは将門が京都にまで侵攻してくるのではないかという物理的恐怖をともなう、まことに深刻なものであった。

     天慶3年(940)正月、朝廷は将門を極悪非道な狼籍者と断じて将門追捕(ついぶ)の軍勢を送り、また宮城十四門に兵士を配置して防御させ、さらには諸寺社や高僧・宮廷陰陽師たちに将門の調伏(ちょうぶく)(呪殺)の祈祷を依頼している。武力と呪力の双方を動員しての怨敵退散を図ったのである。

     その調伏の呪術のやり方は、悪鬼(将門)の名前を書いたものを護摩壇(ごまだん)に投げ入れたり、賊徒(将門)の形代(かたしろ)である人形を棘のある木の下にくくりつけて呪詛するというものであった。すなわち、こうした呪術的コンテキストでは、将門の死は神仏の罰が下されたもの、つまり調伏・呪詛の呪法の成功というふうに理解されたわけである。

    ※省略

     怨霊化はしなかったが、将門は京都の人びとのあいだで語り伝えられていく。賊徒として、悪鬼として、超人として、地獄に墜ちた罪人として。そして、そうした伝説のなかで、将門はどんどん神秘化されていった。

    ※省略

     これほどの超人であった将門も一カ所、こめかみだけが生身であることや、影武者は灯火を通して影がないという弱点があった。これを愛妾・桔梗前(ききょうのまえ)の裏切りによって秀郷に知られ、敗れてしまうのであった。

     このように、京都の人びとにとっては、伝説のなかでも将門は「敵」であった。しかも、将門は時代を超えて「朝敵」であり続けた。その烙印は江戸時代になって後水尾天皇から勅免が下されるまで続いたのである。

    ■関東側のイメージ「将門=悲劇の英雄」

     京都の宮廷社会では、将門は朝敵であった。しかし、京都の朝廷に対して思うところがある人びとは、朝廷に反抗して敗れ去った将門に親近感を抱いていた。その筆頭に挙げられるのは、関東に古くから住む人びとである。関東に縁もゆかりもない下級貴族が中央から派遣されてきて、国衛の役人として権力をふるい、私腹を肥やしているのを快く思っていなかった。だからこそ、かれらは関東の「独立」を図った将門を支持したのである。京都政権に敗れたとはいえその志は高く評価され、悲劇の英雄として在地の人びとに語り伝えられてきた。

    ※省略

    ■例祭をボイコットした江戸っ子たち

     ようするに、徳川将軍家のお膝元の江戸っ子たちは、天皇にこびへつらっている輩を将門の霊の威徳に背く人非人だと非難し、一文の寄付をするのも惜しみ、例祭をボイコットしたというのである。(続きはソース)

    5/25(月) 9:15配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200525-00035560-president-soci
    https://amd.c.yimg.jp/amd/20200525-00035560-president-001-4-view.jpg

    【【歴史】「西では極悪人、東では神様」 平将門にみる日本人の歴史感覚 [樽悶★]】の続きを読む

    引用元:https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1209439551/

    1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/04/29(火) 12:25:51
    幕府のために天保の改革を進めるも、失脚、悲運の晩年を過ごした
    老中・水野忠邦について語ろう。

    【水野忠邦について語るスレ】の続きを読む

    このページのトップヘ